大湊波除堤

大湊波除堤
大湊波除堤
大湊波除堤
枚目 / 枚中
大湊波除堤
大湊波除堤
大湊波除堤
資料名  :大湊波除堤(おおみなとなみよけつつみ)
資料コード  :20110710045
分野  :史跡 
分野2  :波除堤
時代  :江戸
地域  :三重県伊勢市大湊町
概要  :大湊波除堤(おおみなとなみよけつつみ)
 今から280有余年前のこと、享保14(1729)年3月、大湊の惣中町民代表(地下惣代藤川ほか5名、月行事役山中彦兵衛ほか8名、年寄役足立次郎衛門ほか5名)は連署して信楽代官所・多羅尾治左衛門へ浜海岸の修復願い書を提出した。その甲斐あって拝借金を交付されることになり、前年の暴風雨や地震による海岸の自然堤防崩れが修復普請される運びとなるが、その幕府への仲介の労を取るのが、時の山田奉行・第20代保科淡路守正純(まさずみ)であった。
 従前には、大湊惣中の負担にて普請修復がなされていたが、今回は幕府の直接の経費負担(国役金)で執行され、これ以来大破に及んだ場合は、幕府の国役金で賄われることとなった。堅牢な波除堤(波除け堤防)は、その長さ456間(約820メートル余)にわたり、その内側の囲い水面を、伊勢神宮の御遷宮時のご用材貯木場(地元にて網場(あば)と呼ばれていた)に利用された。総経費は1380両(現代時価・約1億3千萬円)、築堤年月期間 3年半。
 今日、【波除堤】の痕跡は、大湊地区の東北部海岸線に残りおり、かつ、築堤当時や安政時代の修復石積み跡が八幡社の北側において見られる。158年前の安政両度の地震津波被害の修復については、時の山田奉行・第45代山口丹波守直信が尽力をした。大湊町民により死亡後に供養碑を建立された保科奉行、嘉永二年(1846)の御遷宮に際し宇治橋の擬宝珠にその名を刻す山口奉行ともに、当奉行所における人望ある名奉行であった。
 出典: 平成29年度特別展「山田のまちと水害」(山田奉行所記念館)の展示
撮影者  :桝屋善則
撮影日  :20110710